「肝試しに行こう。」
夏休みも終わる頃、今年は何一つ夏らしい事をしていなかったと気づく。
唐突に提案してみると、まこは1秒弱固まってから深い深い溜息をついた。
「どうすんの、これ。」
山積みになった宿題たちを消化するために、わざわざ手伝いに来てくれていた。
まこが白紙の課題をトントンと指で叩く。
もうすぐ終わるとしても、まだ2日は余裕がある。
果たしてこれが余裕というのかどうかは別として。
「だって何もしてない、夏らしいこと。」
日ごろ部屋に引きこもって、ゲームばかりしている自分が言うのもおかしな話なのだが。
まこは少し考えてから、呆れたように笑って立ち上がった。
「絶対出るところ行こうか。」
場所は住宅街のど真ん中にあった。
駅や商店街からは離れていて、古そうなアパートや一軒家が立ち並ぶ。
その古いアパート群のうちのひとつ、
錆びたトタン板を纏った茶色いアパートの前でまこは立ち止まる。
振り返って僕を制止すると、引率の先生よろしく、人差し指を立てて警告した。
「ココ、本物だから大きな声は絶対出すなよ。
それと、これに懲りたら二度と肝試しなんて言わないこと。」
大げさだな、と笑いながら頷くと、
まこは僕の頭をぽんぽんと撫でてから件の部屋へと向かったのだった。
僕は、その背を追っていく。
入居者は居ないのか、ドアに備え付けられた投函口はすべてテープで塞がれている。
黄色や白色、はたまた水色のビニールテープたちは褪せ、はがれかかっていた。
その部屋は5つ並んだ部屋のうち、最奥にあった。
「おいで。」
まこに呼ばれて部屋の扉の前に立つと、彼が扉をゆっくりと引いた。
じっとりとした冷たい空気が足元に這い寄る。
「入ってごらん。」
静かに発せられたまこの声は、落ち着いていた。
見たところ、6畳ほどの1Kであまり広くはない。
まだ日も落ちていないのに薄暗く、部屋の中はカビと何かが饐えた臭いが充満している。
カーテン越しに入り込む僅かな日光に照らされた室内には、服や家具がそのまま残っていた。
女性の部屋だろうか。
埃も被っていない。となると、つい最近まで住んでいたのか。或いは――
「ねえ、まずいんじゃないの?」
玄関から動かないまこを振り返って訊ねる。
まこは、「何が?」と答えた。玄関からの逆光で顔がよく見えない。
気のせいでなければ、声が笑っている。ような気がする。嫌な予感がする。
「まだ住んでるでしょ、ここ。」
そう言った瞬間、身体が凍りついた。
黒い何かが、ズズズ、と背後で背を伸ばしている。
目で見て確認したわけではないのだが、
影のようなモノが、音もなく、背後で身体を膨らませている。
少しずつ、少しずつ、近づいて来ている。汗が噴き出る。滴る。
「自殺だったらしいぜ。」
穏やかなまこの声が部屋に響く。
「自分の半分くらいのトシの奴に入れ込んで、
相手にされないって狂言自殺繰り返してたんだよ。」
耳を抜けていく声色が変わっていく。静かに静かに、荒れていく。
「ロクでもないババアだよなぁ。笑っちゃうよ。」
視界の端に、手のようなものが映り始める。
触られる。触ろうとしている。僕に。
「結局、狂言のつもりだったのに失敗して、マジで死んだんだよ。
何日も苦しんで、やっと息絶えた。
誰も助けてくれないって嘆きながら。馬鹿みたいに。」
まこは笑っていた。声だけは。本当に笑っていたのかはわからない。
暗いのだ。暗い。怖い。
背筋に冷たいものが触れた。そして、声を上げようとしたとき、
パン!と大きな音が部屋の中に鳴り響いた。
まこが手を叩いた音だった。崩れ落ちそうになるほど、身体の力が抜けていく。
「さ、帰るか。」
やっと室内に足を踏み入れたまこは、僕の頭をわしわしと荒っぽく撫でると、
引きずる様に僕をその場から連れ出した。
帰り道、いくつも浮かんだ疑問をひとつずつ投げかけてみた。
どうしてあの部屋の存在を知ったのだろうか。どうして入ることができたのだろうか。
まこにはあの黒い何かは見えていたのだろうか。
どうして”彼女”の事を知っていたのだろうか。
まこは何も答えず、そして目を合わせる事もなくこう言った。
「もう肝試しとか言うなよ。」
その横顔は、口元だけが笑っていたのだった。